埼玉県所沢市のリフォーム・増改築専門 双葉屋・代表 加藤裕治の仕事への思いを綴った「創業物語」です

創業物語

双葉屋は祖父の代から、親子三代、建設業を営んでいます。
現在の双葉屋は埼玉県所沢にあります。
所沢には皆さんもよくご存じの西武ライオンズの本拠地があります。親子三代で培った確かな建築知識と、日々の修練と習得により得た技術を使って最新のリフォーム工事を行なっています。
双葉屋の創業者である祖父、二代目・父、そして三代目・加藤祐治の仕事に対する思いが、このページで伝われば幸いです。

幼少期の加藤

親子三代建設屋です

双業屋の創業は祖父の時代からです。明治時代から続く蕎麦屋の長男だった祖父は風来坊で、喬麦屋を継がず「双葉屋」という内装業を創始しました。戦前より、清水建設の下請けを主に行なっていました。
祖父は細部にもこだわる職人気質の人で、優れた内装技術の腕を買われ、親会社から大変贔屓にして頂いていたようです。ホテルのロビーや宴会場、大手企業の役員室などの内装も手掛けていました。

私は子供のころ、よく父の会社へ遊びに行ったものですが、高度成長期の中、祖父から父へと代が替っても、たくさんの人に囲まれていて、経営は順調であったと子供ながらに記憶しております。

そんな中で、すくすくと成長し、中学時代はラグビー部に所属するほどたくましくなりました。下のラグビーの写真は中学時代に秩父宮ラグビー場で試合をした際の写真です。今見ると「これが中学生!?」と思うような体格ですね!一番左が私です。

祖父と父と一緒に

(左)祖父と6歳頃 (右)父と5歳頃

ラグビーの写真


しかし、バブルがはじけ、世の中が不景気になり、多くの企業が縮小したり、消えていく中、価格競争も激しくなり、双葉屋の経営は傾いていきました。そんな状況もあり、また自営業の跡取りに良くみられるケースですが私も親の仕事に全く興味がありませんでした。将来は自動車関連の仕事につきたいと考えていました。

親の仕事に対してよいイメージを抱いていなかった私でしたが、19歳のある日、父の仕事場でアルバイトをしていて衝撃的な体験をしました。
それは、70歳近い高齢の大工さんのカンナ削りの技術を見た瞬間です。
カンナがスーッと板の上をなめらかに走り、一瞬にして、物差しでは測れないほど薄い、透き通るような削り節が空を舞いました。その姿を見て、私は感動し、「大工になりたい! 」と強く思ったのです。
その後、すぐに大工の道を進んだのですが、大工といっても見習いの身なので、雑用でもなんでもやらされました。昔の大工さんは職人気質の人が多かったので、「見て覚えろ」「目で盗め」と、教え方はそれはそれは厳しいものでした。物が飛んでくるなんて日常茶飯事です。
日本一の大工を目指す気持ちはありましたが、当時はまだ若かったせいもあり、日中のストレス発散とかこつけて、夜は友だちと飲みに行ったり、好きだったバイクを乗り回したりと、毎日のように夜遊びを繰り返していました。

高いところが怖くなった大工

若かりし頃の加藤

そんなやんちゃな青春時代を送っていたある日のことです。
私は、前の晩の夜遊びがたたり寝不足のままで現場に行ってしまいました。
建築中の家の梁の上を歩いていた時、私は、睡眠不足で頭がボーっとしていました。そして、気が緩んだ瞬間、
「あっ!」
体が宙に浮いていました。
その刹那、猛烈な勢いで腰から地面に叩きつけられました。

「おーい、祐治が落ちたぞーっ!」
上から棟梁や職人が駆けつけてきました。
工務店の車に担ぎこまれ、近くの病院に運ばれました。
幸いにも、私は小学校から高校までラグビーをやっていたため体だけは頑丈で、命に関わるような怪我はなく打撲だけですみました。

しかし、体の怪我より、私はもっと深刻な心の怪我を負ってしまったのです。
現場に復帰しても、高い所に登ると恐怖ですくんでしまい、足が一歩も前に出ないのです。顔が青ざめました。
大工として、高いところが怖いということは、致命的です。
水泳選手が水が怖いのと同じです。料理研究家が刃物が怖いのと同じです。
その後、一年間は大工をなんとか続けましたが私は、高所恐怖症は一向になおりません。
私は遂に、
「辞めさせてください。」
と親方に申しました。

日本一の大工を目指していたので、悲しみや自分の情けなさに対する怒りで胸が一杯になりました。しかし、それでも家造りが大好きだったので、大工を辞めても住宅関連の仕事に就きたいという思いがありました。

売り上げNO.1営業マンと、それを妬む上司

会社員の頃の社員旅行(中国)景気が良かったですね。

その後、建設会社で現場監督を経験したのち、当時は中堅として名の通った不動産会社に就職しました。私の仕事は、住宅リフォームの営業でした。
なんと、入社2年目で営業成績は1位になりました!
なぜ私が営業でNo1になれたのかというと、目の付けどころが他の人と違っていたからです。
不動産会社は売買が成立したときに、必ずリフォーム工事が伴います。

私は社内の不動産売買を担当している部署の人と仲良くなり、売買が成立した顧客情報を教えてもらい、リフォームの仕事を着実に取っていきました。
他の営業マンは、社外ばかりに営業していましたが、社内に目を向けたのは私だけだったのです。
私の発想や営業成績が評価され、社長からはずいぶん可愛がっていただきました。私も期待に応えたいと思い、会社の業績があがるさまざまな提案をしていきました。

野球サークル写真

草野球チームもあり、仕事はもちろんですが会社員時代も充実していました…

私の発想や営業成績が評価され、社長からはずいぶん可愛がっていただきました。私も期待に応えたいと思い、会社の業績があがるさまざまな提案をしていきました。
しかし、私の活躍を妬む人がいたのです。
私の出世を妬む人……、それは私の上司でした!
上司は、自分の地位を脅かされると危機感を覚えたのでしょう。
会社をよくしていこうという私の企画案をことごとく潰していきました。
「こんな上司の下にいたら、お客様に対しても、いいサービスが提供できるわけない」と思い、私はついに会社を辞める決意をしました。
私が上司に退職届を出した翌日の朝6時に社長から、
「加藤君、いったいどうしたんだ! 会社を辞めないでくれ」
と強く慰留する電話がありました。そのお気持ちは大変ありがたいと思いましたが、私は自分が理想とするリフォーム業を追求したいという思いが強く、一度提出した退職届を取り消すことはしませんでした。
私が第2の職場をやめたのは35歳のときでした。

たった一皿のギョウザが食べられない

会社を辞めた日から当然、給料はゼロとなりました。
実は恥ずかしい話、私は妻にまったく相談しないで、会社を辞めてしまったのです。今思えば本当に無鉄砲な行動をしました。
退職届を出した夜、妻に聞きました。

私:「なあ、今、うちにいくら貯金ある?」
妻:「え?どういうこと?」
私:「実は… …。会社に退職届を出してしまったんだ」
妻:「あなたはいつもそうなのよ!」

当然、妻は怒り出し、その夜はひとりでずっと泣いていたようです。
仕事ゼロ、収入ゼロ、それからは地獄の3ヶ月でした。

当時の苦労を表すエピソードがあります。
小さな仕事がやっと1件取れて、妻と子どもと3人で、宇都宮に車で行った時のことです。子どもとはしばらく遊ぶこともできなかったので、観光がてら一緒に連れて行ったのです。
仕事が終わってからの帰り道、私は、「宇都宮のギョウザは日本一有名だから食べていこう」と一軒の餃子屋さんに入りました。
私が頼んだのは、一皿のギョウザとご飯でした。
今でも鮮明に覚えていますが、ギョウザは一皿に6個盛られていました。

キャンプ写真

キャンプで仲間たちと。妻も写っています。(どの女性でしょうか!?)独立したばかりの時は、この写真のような笑顔を妻にさせてあげられなくて辛い思いをしました…

妻と子どもと私と、ひとり2個ずつ食べました。とても足りないので、もう一皿注文しようとしたら、妻が子どもに聞こえないように、私の耳もとで
「もういらない」とささやきました。
「なんで? 全然、腹の足しにならないだろ?」
「お金がないの……」

その時ほど、自分の不甲斐なさを痛感したことはありません。
妻や子どもにひもじい思いをさせているのは私の責任です。悔しさと、今の暮らしをなんとかしなければならないという思いで胸が張り裂けそうでした。

土下座をして工事を続けさせる

私は妻と子どもためにも、自分の理想とするリフォーム会社を作るためにも、とりあえず、他のリフォーム会社の下請けをやることにしました。
サラリーマン時代の営業技術を生かし、頂いた仕事をひとつずつこなして行くと、お得意様から徐々に信頼していただけるようになっていきました。
ところが、またしても大きな不幸がやってきました。
親会社の資金繰りが悪くなり、社長が夜逃げをしてしまったのです!
もちろん、私にも報酬が支払われません。
「明日からどうやって生きていこうか?」と放心状態になりました。
家族のことも、明日のことも心配でしたが、私はすでに進んでいた工事のことが気がかりでなりませんでした。
私が営業して取ってきた取引先の工事に穴を開けられないと思ったのです。
親会社が倒産した次の日に、工事の親方のところに行きました。
通常、職人は親会社が樅れたりして、お金が支払われない場合は、一気に仕事を中断するのが通例です。
「あそこの会社は資金繰りが悪い。倒産しそうだ」
そんな些細な情報でも工事現場の親方の耳に入ってしまったら、工事は中止されてしまいます。
私は、会社が倒産した次の日、夜明け前に、工事を担当する親方の家を訪問しました。親方に工事の続行をお願いすると、親方はにべも無く一言、
「金が入らんのなら、俺たちは、この仕事はすぐに降りるよ」
「工事はどうか続けてください。お金は何とかします。私を信じてください!」
と土下座をして何度も工事を続けてくれるようお願いしました。
必死で説得しました。長時間の説得の末、親方は、
「お前がそう言うなら、最後までやり通そう」と言ってくださったのです。

「加藤さんがいなくなったら困ります!」

親会社は潰れてしまいましたが、下請けの私は工事を諦めませんでした。
そして、私が手がけた工事は、納期どおり、すべて終了したのです。
私は、一円も報酬を得ることはできませんでしたが、この事件を通して大きな財産を得ることができました。
取引先の建設会社の支店長が、次のように言ってくださったのです。
「加藤くん、これからどうするの?」
私は、日本一のリフォーム会社を作りたいことを支店長に伝えました。
「それなら、とりあえず会社を作りなさい。キミならできると思うよ。私もできる限り協力してあげるから」
なんと、取引先の社員さんたちまでが、応援してくださることになったのです。私は親会社が急に潰れて、悲観していたのですが、最後まで工事を推進し、やりぬいたことをたくさんの人々が見ていたのです。
あの時、私が仕事を投げ出していたら、今の会社は無かったと思います。
あの時、お金をもらえるかどうかは、私の頭にはありませんでした。
とりあえず、私が関わった工事は、最後までやりとげようと思ったのです。
今でも社員さんが言ってくださったことを鮮明に覚えています。
「加藤さんがいなくなったら困ります!」
その後、紆余曲折はありましたが、あの時の言葉が私を支え、勇気づけてくれました。
私は理想のリフォームを目指すために会社を設立することにしました。
そして、仕事を通して、たくさんの協力者に巡り会い、たくさんの恩人に支えられて、会社の経営を軌道にのせていくことができたのです。

ひと手間のサービスが笑顔をつくる

「あれっ、キレイになってる?」
「ここも直してくださったの?」
お客様から驚きの声を頂けるのが私のひそかな喜びです。
外装リフォームの工事中、配管の汚れが気になれば、汚れを落としたあと、保護用のテープを巻き直します。
壁を塗装するときには洗浄が必要なのですが、ついでに塀や道路までキレイに洗い流します。
外壁の塗り替えを依頼されただけなのに、ベランダのペンキがはがれているのが分かったら、そこも途り替えてあげます。
これらはすべて、工事の契約内容には入っていないものですが、見えないところまできちんとメンテナンスしています。
「外装のリフォーム工事は、『双葉屋』さんにお願いしたい」
という紹介客がよく来られますが、当社の経営方針は、「ひと手間を惜しまない」です。
気がついた箇所を見つけたら、絶対に手を抜きません。
「ひと手間をかける仕事をしろよ」
これは祖父の代から引き継がれた双葉屋の真髄だと思っています。
父の代で一度潰れている双葉屋を、私の会社の屋号として復活させた6年前に、祖父が辿した理念も復活させました。そして、何より、祖父や父が大事にしてきた、お客様が気づかないような細部にまで心を配るという、ひと手間を大事にするリフォームを、これからも多くの人に届けたいという願いを込めました。
「あの時、あれをやっておけばよかったのに」という後悔を絶対しないように、自分自身に言い聞かせるとともに、社員や職人にも徹底させています。


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